卒業生の思い出 Memory

宿泊施設として生まれ変わる旧藤倉小学校は、藤倉地区で暮らす人々にとって大切な場所。明治7(1874)年にお寺のお堂を学び舎として開校して以来、昭和61(1986)年、統廃合するときまで、数々の思い出を残してきました。

山で隔絶された土地柄ゆえ、「自分たちでやる」というのが藤倉マインド。
第二次大戦後、人口が急激に増えて、校舎の建て替えをしなくてはならくなったときも、資金集め、整地、材料運び、建設など、すべて自分たちの手で行ったといいます。

藤倉で生きてきたみんなの思い出がたくさんつまった小学校だからこそ、統廃合されて使用されなくなってからも、建物を壊すことなく、大切に残されてきました。

小学校とともにあったかつての藤倉の生活。それはどんなものだったのでしょう?
新校舎ができあがった昭和30年前後に学校へ通った3人に思い出をうかがいました。
小学校の歴史を知ることは、藤倉集落の暮らしを知ること。
藤倉には、今も昔も「生きる力」があふれているのです。

おはなしその1 田倉栄さん(さかさん)

田倉栄(たくら さかえ)さん
通称:さかさん
職業:百姓、元教師

  • 新校舎完成は中学1年生。
  • 自分もつるはしをもって学校の整地に参加。
  • 中学卒業後は炭焼をしながら通信教育で高校・大学を卒業。教員免許を取得して小学校教師となる。

元教師の「さかさん」こと、田倉栄さんは旧藤倉小学校の歴史に詳しい。昭和61(1986)年、藤倉小学校が統廃合されて閉校になったとき、『大杉とともに』という閉校記念誌を編纂するため文献をあたり、多くの人から聞き取り調査して、学校の歴史を一冊にまとめたからです。その冊子から浮かび上がるのは、ひとりの熱血教師の存在。戦後、物資の貧しかった時代に赴任して14年。先生だけでなく、地域のことを思って働いた先生の存在は、さかさんを始めとして、多くの人に影響を与えたのかもしれません。

自分より重い炭を橇で運んで毎日通った学校時代。
先生は誰も「勉強しろ」とは言わなかった。

新校舎ができあがったのは卒業したあと。でも、敷地(校舎)を作るのは手伝ったんだよ。地域のおとなが作業していた中、おれたちは授業の休み時間にやった。

土地を広く使うために、斜面の土地を3メートル掘り下げなくてはならなかったんだけど、それが骨の折れる作業でね。今でこそユンボやブルドーザーがあるから、すぐにできるけど、このころはつるはしで崩していったんだよ。1坪を掘り下げるのに1週間くらいかかったんだ。
昭和28年から整地、石垣積みを開始して、29年に土台の材料集め、地鎮祭をやってから基礎工事が始まった。その後、昭和30年にようやく落成開校しているから、ずいぶんと時間がかかったよね。

土台と柱は栗の木を使ったんだ。栗の木は腐らないからね。育成しているのは藤倉小学校から1時間くらい上がった土地。それを木を切って運んできたんだ。何本かって? 何百本もだよ。3〜4メートルくらいの大木をみんなで運ぶんだ。本当はおとなたちがやるんだけど、うちは親父がいなかったから、子どもだけど代わりに出たんです。

おとなたちは、各家庭から50人くらいずつ集まって、自分の仕事をもちながら1年間くらい労働奉仕をしていた。「人足(にんそく)」っていうんだけどさ。工事をやっていたとき、おれたちはちょうど6年生で、勉強よりも土木作業のほうがおもしろい。基本は休み時間にやっていたけど、先生たちも「勉強しろ」とは言わなかったんだよね。私達の先生は絵が好きで、授業中「(作業している姿を)絵に描いてこい、勉強はしなくていいから」って言うから、おれたちは飛び出していったもんだよ。おとなたちがつるはしをもって作業しているところ絵に描いた記憶が残っている。

私の家は上のほうにあるから、学校までは下り坂で歩いて30分くらい。でも、炭を背負って行くんだよ。山奥で爺さんや親父が焼いた炭を家までもってきて、その炭を下まで運んでいく。旧藤倉小学校の下にあるバス停のあたりに炭の保管倉庫があったから、学校へ行くついでに、家からそこまで運んでいったんだ。炭をおろしてまた戻ってくると1時間はかかっていましたね。背負うと1俵だけど、橇(そり)使うと4俵は乗せて引っ張ってこられる。4俵だとだいたい60キロくらいだな。生きるために、いろいろ考えてやっていたんだ。

藤倉のためを思って働いていた先生が子どもに伝えていたのは、「次世代を担う君たちががんばって、藤倉も本当の民主化をするんだ」ということ。

先生でいちばん影響をうけたのは中島先生。昭和24年に赴任されて14年間。奥さんのえつ先生は、先生の仕事だけじゃなく、地域の面倒もよく見てくれたんだ。
「当時、羽村や福生には電気が来ていて電灯もラジオもあるのに、どうしてこの地域だけ昔のままなのか。次世代を担う君たちが勉強してがんばらなくてはだめだ。この地区でも本当の民主主義を育てなくてはならないんだ」ということを子どもたちの前でよく言っていた。だから、昭和35年に電気が藤倉に来たとき、ものすごくうれしそうな顔をしていたのを覚えていますよ。

近くに医者がいなかった時代だったら、みんなえつ先生を頼りにしていた。土曜日になると杉並の自宅へ帰って、日曜の夜遅くに、薬と一緒に、購買部で売る日用品なんかをたくさん背負って帰ってきた。当時はまだ藤倉の4キロ手前までしかバスが通ってなかったからね。えつ先生は、細い体なのに思い荷物を背負って毎週4キロの道のりを歩いて帰って来た。お産の手伝いや病人の薬の世話までやってくれていた。

いろいろな先生が赴任して来ては3〜4年で転出してしまうなか、中島先生は「教員も地元で育てないとダメだ」ってよく言っていた。私に「教員になれ」って言うの。でも私は、中学卒業したあと、炭焼をやっていた。昭和35年くらいまで養蚕と蒟蒻もやっていた。その3つがお金を得られる換金作物だったからね。でも、貿易自由化で、材木、蒟蒻も全部が安くなっちゃった。炭焼き中心の生活を10年ちょっとやったんだけどね。転職せざるを得なかったわけです。

藤倉に期待することは、やっぱり自然をどうするかの問題。自然は、これまで藤倉で暮らしてきた先輩たちが残してくれた宝物だと思うからね。檜原村に拠点をおいている「東京チェーンソーズ」のように、山に手をいれて価値をつくりだしながら未来を見ている若い人たちの存在は心強い。

藤倉にもいいものがたくさんあるから、みなさんにはそれを知ってもらいたい。このあたりは「日向平(ひなたびら)」「中組(なかくみ)」「倉掛(くらかけ)」と3つの地域にわけられるんですけど、そこを結ぶルートをつくったら散策ができる。白岩(しらや)にはヘリポートもあり、根本さんの紹介で新宿区のバンドを地域おこしの会で呼んでライブや獅子舞をやったこともあるんだ。20年近くも前のことだけどね。見晴らしがいい場所だから、あそこで星空観察をやってもいいだろうね。

「ヒメホタル」って知っていますか? ゲンジボタルやヘイケボタルより小さくて山にいるホタルなんだけど、茗荷平(みょうがだいら)には梅雨前になるとわーっと現れて、チカチカ光るんです。長野や関西では、ヒメホタルで地域おこしをやっている場所もあるといいます。珍しいホタルだから、藤倉でもぜひ保全活動をしながら、みなさんに見てもらえるようになるといいですね。

まとまらない話になってしまいましたが、80歳を過ぎた私が期待するのは「藤倉が好き」といって都会から見えて活動している皆さんなのです。

おはなしその2 峯岸葵さん(まもさん)

峯岸葵(みねぎし まもる)さん
通称:まもさん
職業:猟師、百姓

  • 新校舎完成は小学校4年生。
  • お父さんが石積み名人で、学校の石積みはほとんど行った。

高い高い石垣の上。江戸後期に建てられ、文化財に指定された立派な家暮らす「まもさん」こと峯岸葵さん。入口入ってすぐの広い土間には、かつて集落にあった鍛冶屋で特注してもらった桜のさやのナタとともに、ナイフなど、使い込まれた道具がきれいに並べられています。まもさんは、現役の百姓で猟師。自給自足で生活してきたから、何でも自分たちでできるけど、困っているときはお互い様。みんなで助け合って生きてきたといいます。

終戦の子だったおれたちの同級生は8人だけど、 戦争が終わったら、産めや増やせや。2歳年下の弟には30人の同級生がいる。

新校舎の工事は3年生のとき。製材所が寒澤寺(かんたくじ)の下のほうにあって、おとなたちが丸太をかついだり、引いてきたりした木材を、大工さんが刻んでいましたね。うちのおやじは石垣担当。ずいぶん時間かかったよね。1年生で学校に入る前から旧校舎を取り壊して、基礎をやって、庭をつくって、下の川から石垣の石を全部もってあげたんだから。全部で3年くらいかかったのかな。

校舎ができるまでの間は、上にあったお寺のお堂で勉強していました。ぼろぼろなお寺だったから、新しい校舎ができたときは、ピカピカのができたって喜びました。自分たちは子どもだったから工事の手伝いはしなかったけど、4年になってからは薪割りをやっていました。新校舎にはストーブがあったから。

自分は終戦の子。昭和20年8月9日、ちょうど長崎に原爆が落とされた日に生まれたの。この家で。おやじは戦争へ行って帰ってきていた。フィリピンでマラリアにかかっちゃって。そのまえは満州、樺太にも行っていた。機関車の運転手をやっていたと言っていましたね。

小学校の同級生は8人だけど、戦争が終わって、産めや増やせやだったから、そのあとどんどん増えていった。うちの弟は昭和22年生まれで2歳下なんだけど、一年生で入るときには1学年30人。おれが18 歳で青年団入ったときは60~70人はいたからね。当時は、100軒くらいの家があったんじゃないかな。

子どものころの楽しい思い出は運動会かな。うちじゅうで丸くなってごはんを食べていました。うちは6人兄弟で、おれは一番上。みんな2歳違いだから、同じ学校に兄弟が3人いた。けんかしながら学校に通っていましたよ。家にはひいばあさんもいたから、9人で暮らしていました。6人もの子どもをよく育てたもんだと思います。自給自足だからできたんでしょうね。

藤倉小学校は分校だったから、本校がある小沢までは歩いていったら2時間くらい。運動会は藤倉小学校単独でやることもあったけど、連合でやったこともあった。そのときは、まわりのおとなにオート三輪を運転してもらって、本校までみんなで乗っていきました。

藤倉に電気が来る前から、 川の水を堰き止めた水力発電でラジオを聞いていた。

新校舎ができたとき(昭和30年)、まだ藤倉には電気がなかった。電気が来たのは昭和35年。電気が来る前、NHKに電池を入れるラジオを寄贈してもらったんだ。

電気が来たときはうれしかったかって? うん、うれしかったと思うよ。ただ、うちの家のあたりは自家発電をしていたから、電気があったんだ。ペルトン水車というプロペラに水をとおした水力発電で、ここの上と下、7軒分の電気をまかなっていた。近所の人で専門の学校をでている人がいたから、その人が設計しました。

電気の使い道はほとんど照明。うちの下、熊野神社のところだけ街灯がついていたから、それも発電の照明だったんだろうね。うちの親父も新しいもの好きで、藤倉に電気が来る前から蛍光灯もラジオも揃えていたよ。家で当たり前のようにラジオを聞いていたから、藤倉に電気が来てもあまり感動しなかったな(笑)。

やれることは全部自分たちでやっていました。今使っている水道は裏の沢から引いたもの。山の湧水をその場でせき止めて、そこにホースをつないでいるの。生まれてからずっとその水を飲んでいるから、水道料金は払ったことないよ。定期的に保健所が来て水質検査はしていて、こないだもパスしています。

自給自足の生活だからね。なんでも自分たちでできるんだよ。斜面に畑をつくって、麦や雑穀、野菜をつくって、だいたいの家はヤギを飼っていた。ヤギの乳も飲んで、ふんを畑の肥やしにするために。うちには牛もいました。これもふんを肥やしにしていた。他の家では、繁殖用に牛を飼っている人もいたし、炭焼きした炭を町に運ぶために馬を飼っていた人もいました。うちに動物がいたのは、小学校時分くらいまでかな。

その当時、猟師をやっていた人が多かったね。おやじもやっていたし、おれも20歳からやっていた。うさぎ、山鳥、こじゅけい、きつねとかを獲っていた。その当時、いのししはいなかったな。きつねとうさぎは毛皮。うさぎの肉はよく食べたよ。今も猟はやっているけど、有害駆除のためがほとんど。いのしし、鹿、猿なんかに、畑の作物をきれいに取られちゃうから。鹿の肉はおいしいよね。

中学を卒業したころ「植林ブーム」があった。今育っている杉はその当時植えたものが多いですね。杉の苗200本くらいを背負って、都民の森の上のほうにある月夜見第二駐車場のあたりまで2〜3時間かけて歩いて行った。あの辺りの木は全部植えました。

仕事は百姓もしているし、石垣も積む。おやじが製材工場を14~5年間やっていたので、その手伝いもしていたし、トラックもちこみで土方もやっていました。できない仕事っていったら、パソコンくらい(笑)。でも、ガラス工場に勤めていたときは、パソコンもやっていたんだけどね。

全部自分たちでできるけど、 困っているときは集落の人が協力してくれる。人間が純朴なんだ。

藤倉のいいところは、人間が純朴っちゅうのかな、まじめにやっているからいいなと思っている。なにをするにも集落の人が協力してくれるからね。うちでもね、屋根の葺き替えのときとか、茅葺き屋根を壊したときとか、親戚や近くの人が何十人と来てやってくれた。

ただ、集落の人がどんどんいなくなっちゃうのは寂しいよね。これから檜原の木を使ったおもちゃ工場ができるし、じゃがいもを使った焼酎工場もできるし、藤倉小学校の跡地に宿泊施設もできる。

仕事をする気になれば、ここでもいくらでも飯を食っていけるよ。今は東京からも女の人が猟を体験しに来たりしている。昔のようにとはいかないまでも、藤倉に人が来るようになるといろいろできることが増えるよね。

おはなしその3 小林茂雄さん(しげさん)

小林茂雄さん
通称:しげさん
職業:大工、小林家住宅モノレール運転手。

  • 新校舎完成は小学校3年生。
  • 旧藤倉小学校のすぐ近くの家に暮らす。

学校のすぐ近くで暮らす「しげさん」こと小林茂雄さん。国の重要文化財として大切に保存されている小林家住宅がある標高750m地点まで、見学者を乗せて運行するモノレールの運転手をしています。実は大工でもあり、小林家住宅の修復にも参加。子ども時代から自転車や三輪車を自作して遊んでいた器用な少年だったといいます。

誰よりも近くで藤倉小学校を見てきたしげさん。 校舎建て替えのときも、大工たちの職人仕事をじっと観察していた。

家から学校まで徒歩1分か2分だから、みんなとわいわい騒ぎながら登下校したり、お弁当もってきたりができないから少し寂しくはあったよ。贅沢といえば贅沢なんだけどね。でも、やっぱり一番近くで藤倉小学校のことを見てきたんだろうなぁ。昨年、小林家住宅へやってきた人が、昔の写真を見せてくれたの。その人が、大学生だったとき、藤倉小学校に来て、子どもたちのために幻燈を上演したって言って。周りの人は誰も知らないんだけど、おれは覚えていたんだよ。やっぱり学校のそばだったからだろうな。毎年夏に、早稲田大学の学生さんたちが来てくれていたんだ。夏休みだからすべての子どもがいるわけじゃない。こういうことは、学校の近くに住んでないとわからないよね。

旧校舎を壊したときは2年生で、校舎をつくっているときは上の寺子屋で学んでいた。いや、「学んだ」っていうか、「遊んだ」かな(笑)。お寺では小さいことから遊び場だったからね。天井がしっかりしていたから、上に乗って飛んで歩いていた。丈夫だったから天井板が抜けることはなかったね。

学校の工事が始まると、当時は車ではなくて、無料奉仕のおとなたちが担いだり、引っ張ったりして木材をもってくるんだよ。で、その木材を大工さんたちが削ったり、切ったり、加工している。それがおもしろいから見ていたんだけど、近くにいくと邪魔だって怒られるんだよね。職人ってそうなんだよ。おれが大工やっていたときなんかも、そばで見られたらイヤになってね、角材に腰掛けて休んじゃう。わざと見せないっていうのもあるけど、危ないからね。万が一怪我でもさせちゃよくないから、つら悪くして「向こういってなさい」って追い払うんだよ。

今でこそ、どんな素材使っているかはひと目見ればわかるんだけど、当時はわからないから、土台にはなにを使うんだ、柱はどうなっているんだって、こっそり見ていた。人の仕事っていうのは、おもしろいもんだよ。

職人の仕事は見て覚えるのが基本だからね。大工じゃなくて、どんな職人もそれが鉄則。親方は手を差し伸べて教えるわけじゃなくて、見て覚えて、それをやる。技術を盗んで、自分でできるようになる。小僧のうちは、親方なんかと口が聞けないから。とにかく自分でやってみて、口が聞けるようになったら、わからないところを教えてもらっていた。

三輪車や自転車など、自分でつくって遊んでいた子ども時代。
焼いた炭を町まで運んで積み下ろすアルバイトもしていた。

大工になる前もそうやって見て覚えていたんだろうね。昔はなんでも買える時代じゃなかったから、三輪車とか自転車とかを自分で作って、坂道をがーって滑って遊んでいた。さすがに四輪車っていうと難しくなるんだよ。でも、それも作って乗っていたな。みんなができるわけじゃない。おれは図画工作の図画は苦手だったけど、工作は得意だったから。材料は炭焼きやっているところに取りに行くの。それを炭として焼けば金になるんだけど、まぁ、子のためだっていって、木材をくれたから(笑)。

炭焼きに使うのは、備長炭なんかは姥目樫(うばめがし)だけど、このへんだと雑木林に生えている楢の木。あとは樫の木も使ってたな。炭としては硬い木が一級品。大きさと太さによって、一級、二級、三級と分けていくんだ。焼いた炭は町の問屋へおろしていた。江戸時代は馬の背中に4俵くらい乗せて、行きに1日、帰りに1日かけて運んでいたらしい。おれが中学のころは、立川までトラックで運んでいっていたけど、その積荷卸しのアルバイトをよくしていた。「しげお、手伝ってくれ」って言われたら喜んでついていったよ。行けば帰りにおいしいものをごちそうしてもらえたからね。

家庭では自分たちが焼いた炭は使ってなかった。立派なやつは売り物にして、自分たちは焼いたときにでる屑みたいな小さいやつを集めて使っていた。それでも十分火が付いたからね。

人より遅いスタートだったけど23歳から大工を始めた。
藤倉へ戻ってきたあと、小林家住宅の修復にも参加する。

高校からは八王子。藤倉へ帰ってきたのは親が死んだあと。高校でてしばらくはいろいろな仕事をして、25歳のときから大工の仕事を始めたんだ。おれは始めるのが遅かったんだよ。兄貴がやっていて、景気がいいから、お前もやったほうがいいと誘われてね。

そのころは結婚して世帯をもっていて、八王子で働きながら、しょっちゅう藤倉に戻って畑をやったり、共有林の手入れをしたり。19歳のときに親父が死んじゃったからね。みんなでやることがあるときには、おれが参加していたんだけど、八王子でも藤倉と同じように、周りの人を大事にして、お茶飲みをしたり、酒飲みをしたり、付き合いを大切にしていたから、両方はどうにもたいへんだった。だから女房を口説いて、「悪いけどこっちに引っ込んでくれ」ってお願いして、子どもと三人で戻ってきたんだよ。28歳のときだった。

檜原戻ってきてから、こっちの大工の親方の下で働いたんだけど、八王子とは違うんだよね。こっちでは電気ノコギリなんて使わないで、みんな手で引くノコギリでやっていた。八王子では電動工具でバリバリやっていた時代にね。だから親方の前で電動工具を使って見せたら、ぜひそれでやろうってことになった。早いし、きれいにできるから、親方としてはいいことだからね。

小林家住宅の復元作業も手伝いをしたんだよ。平成23年から3年間。「この建物はほかとは違う貴重な建築物だ」っていうのが、檜原村や東京都の教育委員会が調べてわかったものですから、放っておいて茅葺きの屋根なんかがダメになっちゃう前に修復しようということになったの。いろいろな人の働きかけによって。

小林家住宅は、全部ばらして、つかえるものは磨いて、また建て直していった。ばらしをしながら、なるほどなぁって思った。それまで見たことのない方法で建てられていたからね。たとえば、壁のなかの「ぬき」という構造材。これがあることで家が傾かない、今でいう「筋違い」ってやつなんだけど、その代わりを自分たちのやり方でやっているの。そういうのがたくさんあって、「こういうやり方もあるんだ」ってわかって、見ていておもしろかった。今は壁に隠れて見えないけどね。

小林家の修復が終わって公開を始めた7年前(2015年)は、おれも案内のガイドをやっていたんだ。来た人にいろいろ教えてあげたいから、孫が使っていた社会の教科書を借りて勉強してね。小林家住宅が建てられた1700年代後半はどんなことがあったかとか、みなさんが乗ってきたモノレールの乗り場は、標高750メートルの小林家住宅から151メートルくだるから、ちょうど標高599メートルの高尾山と同じ高さだということなんかを話していたよ。

実は、小林家はおれのおふくろの父親の生家で、小さい頃からよく泊まりに行っていたの。その頃は、ただのボロ屋としか思っていなかったけど(笑)。おとなになってからも、盆暮れには付け届けにいって、行ったらお酒をごちそうになったりしていたから馴染み深い場所なんだ。

藤倉の人たちは人の繋がりを大事にして、義理堅い。この地に残る、昔の生活と密接に繋がっていた風習も知ってほしい。

藤倉の好きなところは、人の繋がりがあるところかな。人に対して義理をたてるということを当たり前にやっている。手伝ってもらうこともあるから、困っている人がいたら手伝っておかなくちゃいけない。それは大事なことだと思うよ。だんだん忘れられていっちゃうけどね。

そういえば、おれが小さいころは、鎮守様のお祭りだけじゃなくて、ねずみに対してのお祭り、猫に対してのお祭りっていうのもやっていたんだよ。ねずみなんて悪いことをしているばっかりのようだけど、ねずみにもちゃんとお餅をつくってお供えしてたの。このあたりは麦が主食だから、「麦の種を食べないで、この餅食べてがまんしなさいよ」って具合に。麦は秋口に種まきをするんだけど、全部まき終わったあと、畑ごとにお供えするんだ。うちの畑には大きな石があってね、そこに餅を置いていたな。

このあたりでは小正月のとき、「飾り」をつくる風習がある。餅を繭に似せてつくって、枝にさすことで、いい繭がたくさんできますようにという豊作祈願をする。小林家では長押(なげし)のところに飾っていたけど、豊作祈願と同時にねずみに捧げるものだとおれは聞いていたよ。ねずみはさなぎを食べたいから繭に穴を開けちゃうんだ。すると繭がダメになっちゃう。だから「おまえら、これを食べて、繭を食べるんじゃないよ」って願いをこめてお供えしていたんだ。そういうこのあたりならではの風習も、知ったらおもしろいと思うよ。

インタビュー・撮影日 : 2020年9月19・20日
編集:岡田カーヤ
写真:在本彌生