藤倉校舎の歴史と建物について History
小学校の歴史
旧藤倉小学校の歴史は明治7(1874)年まで遡ることができ、檜原小学校第六分校として集落の寒澤寺の建物を使い開校された。その後、北檜原尋常小学校と改称され、明治34(1901)年に寒澤寺の敷地内に新校舎を建築。昭和22(1947)年に北檜原小学校第二分校と校名が変更され、昭和29(1954)年に校舎の老朽化と狭さから、現在の校舎に建て替えられた。
分校は昭和41(1966)年に檜原村立藤倉小学校に昇格された。しかしながら世の中が高度経済成長期に入ると、檜原村の主要な産業であった林業や炭焼き、養蚕は生産が減少の一途をたどり、若者が村外へ流出することとなる。その結果、村内の出生率は低下し、児童数の減少へと続いた。村はこのような状況から、昭和55(1980)年に村立小・中学校統合基本計画を定め、昭和61(1986)年に檜原小学校に村内の小学校を統合することとした。旧藤倉小学校も分校から小学校への昇格当時は84名いた児童が、昭和50年代にはその四分の一に減少し、昭和61年に最後の卒業生3名を送り出して閉校となった。
校舎の建物について
現在の校舎は学校教育法施行後に建設された校舎だが、藤倉地区の共有林を売却して資金をつくり、大部分を学区民の寄付や労務奉仕によって建てられた。国・都・村からの補助金は総工費の四分の一に過ぎなかったと記録が残っている(「藤倉小学校閉校記念誌」)。公共性のある建設工事をこのような寄付や労働奉仕による「普請」として建設する方法は、村内の他の校舎でも見られ、「郷土史桧原村」(檜原村文化財専門委員会編集、平成8年発行)には学校は、地域のシンボル的な存在で、建設・改修・維持に学区民の資金が使われてきたことから、地域の財産であり、住民の心のよりどころであったと綴られている。
校舎を見ると、柱にはクリ材が多用されており、地場の木材が惜しみなく使われていることがわかる。建て方は伝統的な手法を基本に、軸組に筋違いやトラス(洋式の小屋組)を用いた近代的な構造が取り入れられている。東京市小学校の木造校舎の規格に準じた造りとなっており、外観も洋風建築であることから、設計には都市部の建築技術者が携わっていたと推測できる。
藤倉地区に電気が通るのは昭和34(1959)年まで待たなくてはならず、竣工して間もない頃は自然光だけで授業が行われていた。そのため旧藤倉小学校には教室だけでなく、廊下にも高窓を設け、自然光を取り入れる工夫が行われている。校舎を東尾根の先端に建てたのも採光の優位性を考慮した配置と想像できる。児童に対して、できる限りの教育の場を提供したいという、地域の想いの詰まった建物であることがわかる。
現在では、道路が北秋川沿いに走っていることから、川を基準に物事を考えがちだが、檜原村の交通は元来尾根の道が主要だったため、民家も尾根伝いに建てられていた。小学校の立地もそのような慣習に習った配置と考えられる。小学校の配置計画では校舎の南側に校庭を配置するのがセオリーだが、校庭と昇降口が西側で、南側に崖があるのもこの地域ならではの配置計画と言うことができる。
戦前の木造校舎の典型例(東京市小学校木造校舎構造規格に準じて建てられた)と言え、東京都に現存する数少ない木造校舎の一つであり、学校建築遺産としての価値が高い。また、地域の人たちが協同で公共性のある建物を造っていた時代の建築として、民俗的な価値も高い。
「旧檜原村立藤倉小学校校舎 保存活用計画書」より抜粋
著者
酒井哲
TownFactory一級建築士事務所代表
一級建築士、ヘリテージマネジャー、住宅医
藤倉校舎 改修設計監理担当